第27回動物園前サイエンスカフェ 「大坂七墓巡り」

第27回動物園前サイエンスカフェのテーマは「大坂七墓巡り」、話題提供は陸奥賢さんでした。「七墓巡り」は江戸時代に大阪で流行した風習で、近松門左衛門の作品にも、『賀古教信七墓廻』があります。当サイエンスカフェの会場近く、飛田もその七墓の1つで、紀州街道から大坂市中への入り口に当たり、処刑場と墓場がありました。大塩平八郎の死骸もここで張りつけにされ、晒されました。
一般には、墓参りは自分とつながる先祖の墓に参るものですが、七墓巡りは自分とは全く無縁の墓を巡り供養するという不思議な風習です。半ば肝試しでもあり、歌舞音曲をともなうエンターテインメントでもあったらしい。公的な祭事としての記録もなく、七墓が特定の7つの墓場をさすものでもなかった。しかも、大阪は20世紀にはいって急激に周辺郡部を飲み込みながら巨大都市化し、その結果、飛田をはじめ多くの墓場は商業地や宅地になり、その痕跡すら失われてしまいました。陸奥さんは、その失われた墓場をめぐるツアーを「七墓巡り」として復活させ、2011年から毎年お盆に開催しています。そして、なせか年々このツアーへの参加者が増えているそうです。陸奥さん自身は、2011年の東日本大震災で命を失った2万人近い人々への思いと、無縁の死者をお参りする七墓巡りが結びついたのだと言います。

大坂は冬の陣、夏の陣の壮絶な戦場となり、豊臣家が滅んだ後、江戸幕府の直轄地になりました。大坂は城主のいない都市として、江戸とは異なる町衆による自治が機能するようになりました。陸奥さんはその自治の事例として、町の決まりを定めた町式目の項目数が江戸では50項目しかなかったのに、大坂では500項目もあったことをあげました。式目には例えば、軒下に捨て子があった場合、その屋の住人は養育費の50%、両隣が20%、向いが10%を負担すると書かれていたそうです。また、江戸時代には、人間の死は今よりずっと日常的な光景であったし、大坂の町衆は、よそ者の野垂れ死ににもしばしば遭遇していたであろうと思われます。日々他人の死と向き合わざるを得ず、いずれ自分自身も無縁仏になってゆくことを知る大坂の町衆であったからこそ、七墓巡りという文化を生んだのかもしれません。
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